ライトアーツ ギャラリー / LiterArts Gallery                

モーニングコーヒーはいかがですか?

決まり文句は「われら花の命は短いぞ」。年ごろの女たちにとって、これほど便利な脅し文句はないわけで、最初にこの言葉をつかった人は最高の詩人であり世界最大の心理学者。高校の同級生からの温泉旅行の誘いには、どこか義務のような響きがあったりする。水野美穂はほとんどまっ白の卒論用のレポート用紙を横目で見ながら、「こんなときでないと行けないもんね」と、すぐに答えている。
一月の末。この春大学を卒業する者にまじって高校から就職した晴美も参加してきた。晴美は「三月末の結婚」だという。すでに妊娠していて「予定日は七月のはじめ。つわりがひどかったからさ、会社なんか、あっさり辞めちゃったよ」
晴美は「早すぎるよ」の冷やかしに、「うらやましいか!」と、わずかにせりだした腹を、さらに突き出して胸をはった。早いといっても二一歳。女たちは、「あたしたちだって、男はほしいよ」いっせいに歓声をあげたが、長引く不況の中での就活を終えたばかりの彼女たちに結婚への真実味はうすい。
美穂にも、とりあえず恋人、はいる。しかし交際も四年目になると腐れ縁のような気分があったりする。就活のあいだは会うことも少なかったがさほど気にもならなかった。最近では、母さんのほうが乗り気? そんな気がしないでもない。
そろって露天風呂に行くと、全員の体が高校の修学旅行のときより、さらに女になっていたことにおどろかされた。体からかどがとれた感じ。美大生の五月が「いまがいちばんスケベな体なんだよな」と、それぞれの体を観察した。デッサンで多くの裸婦を見ているだけに真実味がある。
「油絵を描くときはさ、まずキャンパスの目をつぶすために下塗りをするわけよ。その上にジェソで盛り上げたりするんだ。肌の色はその上に寒系のブルーでの下処理が基本なんだ。この白い肌の下に死体色のブルーが隠れてるんだぜ」。言いながら乳房をおさえつけた。男言葉は高校のころと変わらない。「下処理でデコボコにされたり、まるで人生そのものじゃん。たまんねぇよな」
誰かが「われら悩みのど真ん中ってか」本気とも冷やかしともつかない相槌をうち、「でも人生ははじまったばかりだからさ、わたしゃ夢も希望ももってるよ」と、つづけた。
「金をかせいで、しっかり女をみがくぞ!」それから、それぞれの初任給の比較になった。その中で、首まで湯につかっていた晴美が「でも、あんまりがんばると疲れちゃうからね。会社なんて給料をもらいにいくだけだよ」少し水をさした。
子供を産む者と就職する者。平成の時代は女の二一歳におおくの選択肢をあたえている。
水野美穂の就職先は株式会社O・C・S・岡崎支社。オフィスコーヒーサービス。満足できる就職先ではなかったが、ひとり娘で地元を離れられなかったから妥協するしかなかった。
いそがしいのか暇なのかわからないエアーポケットの中で卒業式も終わり入社。そして、重いコートをクローゼットの一番奥につめこむころには、新入社員たちに研修期間の終了と正式配置の辞令がでる。それは、良くも悪くも五月病におちいる季節だったりする。

水野美穂にとっての病院は、まだまだ非日常的な場であり、少しばかりの緊張感をもって足を踏みいれる空間。それが、あらゆる病状の人がいる総合病院のロビーは、ごったがえした路地裏を連想させる。その空間でうごめいている医者と患者たち、そんな印象がある。
その階以外では・・・。なにより、その階の空気は白々しい。
鉄製の重い扉がわずかなうなり音とともに動きはじめると、美穂はあらためて不安と緊張感におそわれた。ただでさえ単独搬入の初日。搬入ルートの最初の納入場所がこの病院に設定されているのがうらめしくなる。さらに、「上の階からセットしたほうが効率がいい」の指令がある。
エレベーターに乗りこむ前の混沌とした、どこか生臭い空気が充満したロビーから、ものの数秒で広々とした静かで明るい空間が姿をあらわす。愛知病院の最上階は違和感をもつほどの静けさ。床がじゅうたん張りで足音が響かず、背中で扉が閉まる音が、きょうからひとり、実感させる。
「あら、きょうからひとりなの」
こわばった美穂の顔が、受付カウンターと待合室を二度ほど往復するのを見て、ナースセンターの奥から加藤が声をかけてきた。さほど大きくないカウンターの隅におかれた千羽鶴が妙にリアル。この人とは先輩と同行のときに何度か顔をあわせている。「これから、よろしくね」声がやわらかい。
「よろしくお願いします」
美穂は、大きく頭をさげた。この階のナースは下の階の人たちとは少し雰囲気が違っている。新米納入業者などは、一言かけられるだけでおちつける。この階の主はナースであり医者ではない、先輩からのアドバイスを実感できる。外科医さえセレモニーにたちあうだけの存在でしかない、と。
美穂は、すこし話をしたかったが言葉が浮かんでこない。「・・・それじゃセットします」もういちど頭をさげて待合室にむかった。まだ話をする余裕がない。加藤が小さく笑った。
一画に喫茶コーナーをもつ談話スペースをかねた待合室は正面のすべてがガラス張りで、そこから岡崎城が見える。戦国時代には、この愛知病院の敷地あたりもたびたび戦がおこなわれた史実が残っている。徳川家康。幼名、竹千代が生まれたのが美穂の家がある足助町から岡崎にむかう途中にある松平町。かつての地名は賀茂郡。戦国時代では、このあたり一帯が、東の武田信玄、上杉謙信などの武将が京に向けて侵略するための最前線であり、西の織田信長、徳川家康らの軍勢との攻防が最も過激になった。史実でも、この街道沿いで死んだ者の数は数万人にも及ぶ、と記されている。もっとも四百年以上も昔の話。過去において大量虐殺がおこなわれた場所など地球上には星の数ほどある。
こちらは現代において人の死が最も身近にあるガン治療が主になる病院。さらに、その最上階。
美穂が厨房でコーヒーサーバーを洗っているとひとりの患者がやってきて、手持ちぶさたな様子で小さなカウンターをはさんでたった。関川洋平。この人の顔色は普通の人とあまり変わらない。ただ不透明な白さだけ。一週間前にきたときには点滴袋をぶらさげた、患者からガラガラと、自虐感をもってよばれている器具をひいた人と一緒だったのだが、二日前からひとりになっている。関川にはガラガラは必要ないらしい。
「コーヒーをいれましょうか?」
美穂は首だけをもちあげて関川を見た。「今、器具を洗ってますから少し待ってもらえますか」
「お願いできればうれしいですね。自分でいれるコーヒーは味気ないから」
関川ははにかんだ様子で笑った。「ぼくはコーヒーが好きなんだけど、この階にくるまでは飲ませてもらえなかったんですよ。だからうれしくて・・・」そこまで言い、すこし言葉をきって窓の外を見た。青空がひろがっている。「五月晴れですね。岡崎公園の藤は満開かな・・・」
「いい天気ですよ。もう暑いくらい・・・」
言いかけて美穂は言葉をつまらせた。先輩から、あの階では外の話をするな、とも注意されている。今も、藤の花を見たい、に流れていく可能性は十分あるわけで、やっぱりこの階は面倒、と思ったりする。しかし、関川は笑った。
「気をつかわなくていいですよ。だから少し話し相手になってくれませんか? 大橋さんがいなくなってしまって退屈してるんです。・・・きみのような若い人には迷惑だろうけど」
限られた時間の中で生きる者。美穂は思わず大橋の部屋のほうを見てしまった。すべての部屋のドアが開放されている。ドアが閉まっている部屋は空き部屋。もっとも、この階の病室が開くことはほとんどない。
「水野さんはどこの生まれですか? 岡崎ですか?」
関川は首からさげたネームプレートを見ながら言った。美穂は突然名前を呼ばれたことに驚いたが、あいかわらず穏やかな表情に安心して「足助町です」と笑顔で答えた。普通に会話を進める術を知っている人。この階を過剰に意識する必要はないのかも、と思えたりする。
「足助ですか。あそこから岡崎までかよってるんですか? 大変でしょう」
「通勤に一時間以上かかります」
じつは今の美穂にとって、これが最大の悩みの種。そして、この話なら安心して話すことができる。「でも高校のときは自転車でかよっていましたから。あのころは足の太さが今の倍くらいあったんですよ」
「倍ですか。それは大変だ」
関川は、いかにもうれしそうにうなづいた。「今日はいい日になりそうです。楽しい人にであえてうれしいですよ。・・・じつはぼくも足助の学校に務めていたことがあって、三十年くらい前になるかな。今は豊田市に合併されたけど、まだ賀茂郡だったころです」
「関川さんは教師だったんですか?」
「ずっと中学で教えてました。ぼくは次男坊だから、足助の中学を最後に賀茂郡から岡崎市のほうに移りました。だから、足助は印象に残ってるんですよ」
「賀茂郡のどちらの生まれなんですか?」
「平谷村です。知ってますか?」
「もちろん知ってます。スキー場がありますよね。でも、それじゃ、そのころは平谷から足助まで通ってたんですか。冬なんて大変だったんじゃないですか?」
「伊勢神トンネルの手前に桃の畑があるんです。あの花が咲くと安心したものです」
「知ってます。いちめんがピンク色になって、それから桜が咲いて春になりますよね」
「わかりますか。うれしいですね。すばらしい景色です」
そのとき、白い顔にピンク色がさしたように見えた。「冬のきびしさに負けて岡崎に移転したようなものだけど、今でも平谷村は好きですね。・・・もう帰れないけど」
関川は笑った。すくなくとも表面的にはおだやかな顔に変化は見えない。しかし、言葉の端はしに未練は感じるのも事実。美穂は関川の前にコーヒーをおいた。「・・・おまちどうさまでした」この階への対応以前に、目の前の老人がわからない。
「暗い話はタブーだったね。ここでは患者でさえ言葉をえらばなきゃならないんだから面倒です」
ゆっくりとコーヒーカップに手をのばしながら、「きみが話しやすい人だから、つい・・・」とつづけた。もう帰れない、のたった一言を悔やんでいる? 美穂にも、はにかんだ様子はつたわってくるのだが、その心境は、あまりにも理解できない。普通なら言葉を選ぶのはこちらであって患者ではない。「普通に話してはいけないことはわかってるんだけど」
「普通の話をしただけですよね。関川さんがよかったら話してください。わたしでよかったら聞きますから」
とりあえず、美穂は笑ってみせた。「ただ、あまり時間はないんですけど」
そのとき、通路を深刻そうな顔をしたふたりがとおりぬけていった。この階にくる見舞客は一様に暗い顔で通路をぬけていき病室にはいると同時に作り笑いを浮かべる。
関川はふたりの後ろ姿を横目で見ながら「きょう論客がくるんですよ。それが楽しみでしてね。つい、おしゃべりになってしまう」
「論客ですか?」
「友あり遠方よりきたるって感じですかね。高校の同級生です。ふたりには長年のテーマがありましてね。駒場の長岳寺って寺の住職なんですけどね、彼が信玄公が死んだのは自分の寺と主張していて、ぼくは平谷の寺なんですね」
「信玄公って武田信玄のことですか?」
美穂は、おもわず関川の顔をみてしまった。そんなことで? ガンの末期患者が? 「・・・それは楽しみですね」、言いながら使用済みコーヒー豆をバックにおしこみ、「明日も同じ時間にきますから結果を教えてください」と、笑って頭をさげた。
人にとって先入観ほど愛想のいい厄介者はいない。これさえあればすべてを理解しているような気になれる、・・・のだが。若者は先入観という垢を身につけて年老いていく、なのだが、美穂は、まだ、そこまで大人になりきれていない。
ナースセンターで納品伝票をだすと後藤が「話し相手をしてあげてありがとね」のりだすように顔を近づけて笑った。「前任の渡辺さんも気を使ってくれたけど、男と女じゃ違うのかな?」
「こんなことで喜んでいただけたらうれしいです」
美穂は頭をさげた。「これからもよろしくお願いします」、とりあえず言葉をかわせたことだけに満足してエレベーターにむかった。

一日の仕事を終えて日報を書いている美穂のデスクまで、その渡辺が、やってきて「ひとりで回ってどうだった?」顔をのぞきこんだ。心配している様子は伝わってくるが、その後がいけない。まさか、新入社員にプレッシャーをかけてどうするんですか、ともいえない。「愛知病院は我が社のいちばんの顧客だからな。そそうがないようにしてくれよ。とくに最上階はデリケートな階だから十分に気をつけてくれよ」
それなら自分でまわればいいじゃないですか、もちろん、これも口に出せるわけがない。「はい。がんばります」美穂は答えた。社会人一年生の気負いと戸惑いが螺旋となって顔をだす。
渡辺はつきだした顔をひっこめながら「・・・あの階に移った人の平均寿命は十日だそうだ」ポツンと言った。
「十日・・・ですか」
武田信玄の死に場所が自分の村か隣の村かで目を輝かせるガン末期患者。関川ははじめて渡辺と同行した二週間前からあの階にいた。少なくとも平均寿命はすでにこしている。
「最高で、どれくらい生きていられるんでしょうか?」
「そこまでは聞いたことはないな。どっちにしてもベットの中で意識がないまま生きてるのもつらいと思うぜ。・・・見てるほうも」
渡辺はポツンといい、「延命を希望する家族もいる、って聞いたけど、それも考えものだよ」そのまま背中をむけた。
「ベットから動けなくなると生きる気力もなくすんでしょうね」美穂は、その背中に言った。
あのときは、とっさなことで気がつかなかったが、三十年前は美穂の両親が足助中学にいた時期。ふたりとも足助生まれの足助育ち。父の真が四十八歳で母の多恵が四十五歳だから関川が足助中学で教師をしていたころとかさなる。

三十年と少し前。長野の病院でひとりの老婆がガンで逝っている。現代ほど麻酔技術が確立されていなかった中で老婆は、のたうちまわったあげくに逝った。その夜は老婆の次男が付添をしていたのだが、次男がわずかにウトウトしたときに老婆は逝った。その眼は見開き手は次男にむかってのびていた。「・・・最後は、あっけなく」
次男は子供のころに母親から言われたことを鮮明におぼえている。「命は大事にせにゃあかんぞ。死ぬとな、棺桶にいれるために体をバキバキと半分に折られるんじゃ。そりゃ、痛てぇもんじゃぞ」
一部の山岳地では土葬が一般的だったころの話。と、いってもその風習は昭和のはじめまで残っていた。その話を聞かされた夜は暗闇がこわくてふるえていたし、それから小さな虫さえも殺せなくなった。
始末がわるいことに、ガンは遺伝子に記憶されている、ものらしい。

ゲルマン民族は破壊をくりかえしながらヨーロッパ全域を放浪して今のドイツあたりに定住した。進行した後には死人しか残らなかったという。ゲルマン民族の大移動。山内渉は西洋の歴史が好きで、時々、子供のような目をして美穂に、こんな話をする。「ゲルマン民族とユダヤ人がヨーロッパの火薬庫だったのさ」美穂にとっては、じつは迷惑この上ないのだが、そのせいで知識だけはついている。

水野家の食卓はテレビよりも家族が主役になることのほうがおおい。
「美穂は甘いんだよ」、真はあきれた様子で笑った。「今は足助中学しかないけど賀茂郡だったころは三つの中学があったんだよ。その関川って人が足助の中学に務めていたからっておれたちがその人を知ってるわけないだろ」ニヤニヤしながら言って、テーブルに茶碗をおいた。「おれのいた中学は廃校になってトヨタの下請け工場になってるよ。母校を自動車に侵略されたわけだ。同級生たちと校舎に火をつけてやろうか、なんてたくらんだもんさ」芝居がかった様子で箸をふりまわした。そういってもトヨタ自動車の下請け会社で課長をしているのだから勝手なものである。
多恵は「汚いなぁ。やめてよ」と、真をにらみつけ、「甘いのは父さんだね。関川先生、あたしたちの中学の担任だったもの」とつづけた後、美穂にむかいあった。「先生、愛知病院にいるの。最上階ってホスピタル病棟っていう所なんでしょ?」
「なんだ、そのホスピタル病棟って?」
「父さんは知らなくていいの」
多恵は真を相手にしない。「少しこわかったけどいい先生だったな」
「あの関川さんこわい先生だったの。イメージできないけど」
「こわいってより厳しかったね。でも本当はすごくやさしい先生だったんだよ。同級生を集めてお見舞いにいってあげようかな」
美穂は、少し間をおいて「早いほうがいいよ」と言った。多恵は「・・・そうだね」短く答えた。「朝のコーヒーは、今日も生きてる、って思いなんだろうね」
居間をテレビの音だけが占領した。そのとき、
「武田信玄は謎のおおい武将だからな。影武者が七人もいたし、死後も生きてるように見せかけろって遺言したらしい。だから死んだ時期も場所も正確にはわかってないんだ。おれには、その関川さんって人が興味をもつ気持ちはわかるな」
祖父の高男がテレビの音にわりこんだ。それは、人の死に対して場馴れしている年代の特権。もともと足助は源氏の落ち武者部落だから、男どもは歴史好きが多い。歴史の話をしていれば知識人、と考えている。女たちには迷惑この上ない、場合がほとんどなのだが、美穂の場合は年寄りの昔話で育ってきたから、渉のヨーロッパの昔話に耳をかすこともできる。利点がないわけでもない。それでも美穂は珍しく高男も話に興味を見せた。そして納得した顔をした。
「・・・もしかしたら関川さんは、そんな解明できないような話題で最後の抵抗をしてるのかな。気持ちに張りを持たせれば少しでも長く生きてられる、・・・みたいな」
高男が「当然だな。誰だって死にたくないからな」と、大きくうなずき、多恵は「でも先生は立派だよ。最後はみっともなく取り乱してもおかしくないからね」ポツンと言った。

美穂は配達の順番を渡辺から受けた指示とは変えることにした。一階から配り最上階を最後にする。当然,荷物を持って上がるほうが体力を使うが、それは仕方がない。生への執念が充満している空間を「すいません。今日はいそがしくて」をくりかえしながら手際よくこなしていった。多少無理をしても、あしたから土・日で連休、という思いがある。美穂の要領のよさは、母の多恵から受け継いだもの。足助の山間部で先祖からの家で生きてきた真は、苦労を知らないお坊ちゃんだったりする。こんな環境の場合、女房中心の家庭が圧倒的に多い。男と女。バランスが取れるようにできている。
美穂のもくろみどおり、今までは一時間ほどかかっていた配送時間が十五分ほど短縮された。さらに愛知病院以降の配送をきりつめれば、さらに三十分くらいの短縮は可能と思える。
エレベーターのドアが重々しく開く感じは昨日と変わらない。こんなとき、誰でも昨日と同じ今日を考える。しかし、そこには人が溢れていた。その中を縫うようにして二人のナースが小走りで通りすぎて行った。その後に見覚えがある医師。首にかけた聴診器が大きく揺れている。
ナースのひとりが顔だけをひねって「水野さん、ちょうどよかった。ご家族のかたを順番に病室に案内してくれないかな」後藤秋絵。後藤は返事も聞かずに一号室にすいこまれていった。この階の一号室。そして救急病室。
美穂は、あわててエレベーターの横に荷物をおいた。人をかき分けるようにして病室のドアまで行く。「ご家族のかたを先に入れてあげてください!」大声になった。「順番にお願いします」。人の頭ごしに、待合室の窓際で苦笑いをしている関川が見える。不謹慎と考えるよりも、この人は生きてた、が先だった。病室の中にふりかえると後藤が患者の顔をのぞきこんでいた。白いナース服の大きなお尻が突き出されている。受付カウンター越しに見る後藤に太っているという印象はなかった。しかし巨大なお尻をしている。そこには安心感があった。
その数分後、患者の胸に聴診器をあてていた武田が腕時計を見た。そして、「九時二五分、ご臨終です」静かにつげた。この一言を境にして患者は、ただの肉の塊、になり、いっせいに嗚咽と叫び声が広がった。美穂は小さく頭を下げてドアの前を離れた。うつむき加減にままエレベータ横のに荷物を肩にかけて待合室にむかうと関川がよってきた。「大変なときに来てしまったよね。こんな経験は初めてなんでしょ。ショクだよね」ゆっくりと言った。苦笑いは消えている。「でも、君がこの階の主みたいに見えたよ」
美穂はなぜか関川の顔を見られないまま厨房にはいった。手だけが、まるで別の生き物のように作業を進めていく。
関川は、「池田さんは、下で同室だったんだ。まだ五十代でね、やっと息子が大学を卒業してくれて家のローンも終わったばかり、なんて言ってた」一号室を見ながら言った。「死にたくないよ、なんて言うから、しょせん枯葉の下で生命を終える小さな虫と同じで自然界の一部にもどるだけだよ、なんて言ったんだけどね。ぼくのほうが先だと思ってたから」関川の声が、重く響きながら美穂の耳を通り抜けていく。「・・・なんか、取り残された気分になるね」関川の言葉が止まらない。あいかわらず受付カウンターの先から泣き声が幾重ものさざ波のように押し寄せてくる。「・・・人間だって地球にいる生き物の一種、だってのにね」
「・・・コーヒーがはいりました」
関川の顔をチラっと見る。少なくとも、その顔はきのうと変わらないように見えた。この階には、美穂のような小娘にはわからない世界がある。エレベーターのドアが開くまではわかったような気になっていた。関川さんに、いっぱい話をしてあげよう、と思いあがっていた。
「・・・母が関川さんの教え子でした。同級生の人たちをさそってお見舞いにくるそうです」用意した話題のひとつを口にした。一番あたりさわりのない話題。
「それは楽しみですね。教師が教え子のより好みをしてはいけないんだけど、ぼくが山河の生まれだから足助の人たちと話すのは気が楽なんですね。同じ種類の人、というか」
関川は教師の顔をした。「すべての生物の一生ってのは、じつは単純で、子孫を残して終える、それだけなんですね。人間だって同じです。何万年も地球上で生き延びてきたんですから。人生の中心は君たちの世代なんです。体が人生の中でベストの状態になるのは、そのためです。だから悩んだり迷ったりするんですが・・・」ゆっくりと、まるで美穂の心を見透かすように言った。「だからこの世代では負の感性は生まれにくいものなんです。それが自然界の摂理なんですね。ところが山河で育った者は負の感性を受けやすい環境があるんですね。かつては山岳信仰という言葉がありましたが,山や森では生命の終焉に立ち会う機会が町の人間にくらべて圧倒的に多いんですね。だから子供のころから死に対する恐怖を感じていて、それが信仰につながったものなんです。だからぼくも、山中のある足助の人たちも負の感性を受けやすい環境で育っているんですね。生き方が臆病になるんです」
それは、口だけが勝手に動いている、そんな感じ。昭和は男のやせ我慢が許された時代。その時代の中で、少しこわい先生、として生きてきた関川洋平。「町の人からは、少し優越感をもって朴訥な人なんて言われたりするんですが、それほど単純なものではないんです」
関川の後方を携帯電話を片手に数人の人がとおりぬけていった。「今、池田さんがなくなって・・・」こんなとき、人は申し合わせたように窓際へ行く。湿った空気の中から少しずつ現実の動きが生まれている。
「わたしたちにもコーヒーをくれないかな」
後藤と佐野が関川の横に立った。病院において家族が主役になるわずかな時間。
「後藤さんも交代間際の時間に大変だったね」
関川は、もう少し授業を続けたい様子だったが、あきらめて疲れた顔のふたりを横目で見た。後藤は、少し間を置いた後、「・・・仕事ですから」と答え、佐野がため息をついた。
「ぼくのときは、君たちに迷惑をかけないようにしたいね」
関川がつぶやくと佐野の顔色が変わった。美穂から見ても、美人なだけに表情の変化がつたわりやすい。そして、後藤よりも佐野のほうがナースのイメージに近い。
「関川さん、そんなことを言うと、わたし、配置転換願いを出しちゃいますよ」
佐野の声は穏やかだった。しかし笑い顔もない。関川は、あわてて顔の前で手を振った。「またこの階のタブーを犯してしまった。ごめんよ。・・・ぼくの悪い癖だ」まるでご機嫌でもとるように佐野の顔をのぞきこんだ。「ぼくのせいでこの階から白衣の天使がいなくなったら男性患者から恨まれちゃうからさ」
「アラ、白衣の天使って、関川さんも古いですね。でも大丈夫。どうやら新しいアイドルできたみたいだし」
佐野は美穂を見た。わずかだが笑い顔になっている。「明るいし機転は聞くし、アイドルの要素は全部備えてるんじゃない」、アイドル。人形。それは飾り物。つけたすように「かわいいし」とつづけた。
「確かに」あたりを気にしながら小さく関川も笑った。普通に冗談を言えるのがうれしい、明らかに、そんな感じになっている。
後藤は、「わたしたちも助かるよね」と、佐野を見た。さすがに疲れている。
美穂はカウンターにコーヒーをおきながら、「せっかくアイドルにしてもらったのに申し訳ないんですけど、わたし・・・」腕時計を見た。重い雰囲気の中で時間を忘れていた、そんな感じ。実は、実際に忘れていた。エレベーターのドアが開いてから、ずいぶん長い時間がすぎているように思える。実際には三十分ほど。「そろそろ、しつれいしないと」業務バックを肩にかけた。
「関川さん、二日ほどお休みしますけど月曜日にはきますから・・・」元気にしていてくださいね、と言いかけてあわててやめた。関川からは末期がん患者のイメージがつたわってこない。しかし、やはりこの階では言葉を選ばなければならない。関川本人でさえ、言葉を選んでいる。「そのかわり母が同級生を連れてくると思いますから、しっかり授業をしてやってください」
関川が「それは楽しみだね」と言い、佐野と水野が「あいわらず関川さん、もてますね」と、声をそろえたとき、三人の後ろを黒いネクタイ姿のふたりの男がとおりすぎていった。「・・・あすは友引だから」、かすかに、そんな声が美穂の耳にも届いてきた。

その人は信玄灰塚供養塔のまわりを掃除していた。駒場、長岳寺境内。美穂は「こんにちは。わたし、水野ともうしますが・・・」と会釈し、渉が「住職さんですか?」と言いながら、同じように頭を下げた。
富岡は、すぐに「おととい行ったときに洋平くんから君のことを聞いたよ。よっぽど気にいったんだろうね」笑顔を見せた。「お茶でも飲んでいってください」と、美穂と渉を自宅へと招きながら「わたしからも礼を言わせてもらうよ。本当にありがとう」何度も頭をさげた。関川の高校の同級生。白い髪をきれいに整髪している。
渉が「こいつ、お節介やきだから迷惑かけてるんじゃないかと心配してたんですけど」大人ぶって言い、美穂は二年先に社会人ななっただけなのに偉そうに、などと考えながら「わたしなんかで元気になってくれればうれしいです」と答えた。
応接間にはいると壁にかけられた黒いスーツが目についた。富岡は美穂の視線をなぞりながら、「もう、あきらめているんです・・・」あわてていい訳をした。どことなく、関川と同じタイプの人、を感じる。「なんとしても、最後には立ち会いたいと思って・・・」ゆっくりと言った。

昨夜は祖父から戦国時代の話を聞いた。高男はご機嫌で話した「風林火山だよ。昔大河ドラマでやってたから知ってるだろ」残念ながら美穂に大河ドラマの記憶は残っていない。「信長が天下統一をしたんだけど信玄が後五年生きてたら天下は信玄のものになってただろうって言われてるくらいさ」
「それだけに生への執念は強かったのかな?」
「自分の死を三年は伏せておけ、って言い残して死んだらしいからな」高男は、まるで見てきたように意気揚揚と話した。美穂には、その姿が関川とダブって見えた。何となく物悲しい気分になって途中で逃げがしたが上杉謙信のあらましは頭に入った。
山内渉と美穂は大学のワンダーホーゲル部の先輩と後輩。出会って四年、交際も四年の関係。渉にとって美穂ほどおちつける相手はいない。ほかの女とちがって、山歩きをしているときに虫などに出会ってもおおげさにさわぎたてることはない。西洋の話も、それなりに聞いてくれる。
最近の美穂は部の後輩に「もう腐れ縁だよ」と半分冗談で口にするようになった。内心では、恋ってこんなに簡単なものなの、そんな思いがある。十八才からの恋。そんなものだ。
渉は学生時代から美穂の家にも遊びにきていて多恵にも気にいられている。もっとも最近になって多恵が、「彼は次男坊だろ。養子でもいいのかな?」と、漏らしたりしだしたのだから、じつは計算高かったりするのだが。もちろん美穂は「なに言ってるの!」軽く受け流している。

多恵は朝から同級生を誘って関川の見舞いに出かけていない。家の前で渉の車にのりこんだ。
足助の街並みを出て百五十三号線の曲がりくねった山道をひたすら登る。頂上で伊勢神トンネルを抜けるとしばらく下りになる。足助よりもさらに涼しいこのあたりでは、今でも所々で山桜が咲いている。関川が懐かしがっていた桃の花はすでに小さな実になっているはずだ。この道が、若いころの関川が足助中学までの通勤に使っていた道。昔の塩の道。太平洋岸から塩尻に向かう塩の道はもうひとつある。それが現在の二百五十七号線。昔の三州街道。
信玄が吉田城を攻めたとき徳川家康は浜松城にいた。信玄は伊豆方面から進軍してくると考えての防備のためだった。しかし信玄は後方の三州街道から吉田城を攻め、三河への退路を失った家康は九死に一生をえている。吉田城を落とした信玄は、その足で岐阜の織田信長を攻める計画をたてていた。
もしも彼の病状が悪化しなければ足助から瀬戸を抜けて岐阜に進軍していた。そうなっていれば、家康や信長の命は、このときなくなっていたかもしれないし、足助の美穂の祖先たちも戦に巻き込まれていたかもしれない。しかし運命は信玄を府中の引き返すことを命じた。信玄は逝く間際まで「岐阜に向かえ」と言い続けたという。
その分岐点になったのが、現在の百五十三号線と二百五十七号線が交差したあたり。
交差点の信号を抜けるとなだらかな登り道に変わる。平谷まで三十分ほど。「武田信玄は、この道を府中にひきかえす途中で死んだんだって」、美穂はポツンと口にした。渉は、
「お前の性格からして、就職したばかりで入れこむ気持ちはわかるけどな、ほどほどにしとかないと後がつらくなるぜ」横目で美穂を見た。
美穂は「・・・わかってる。今回だけ」ひとり言のように答えた。頭ではわかっている。自分などが踏み込める世界ではないし、わかったような顔をするのは、あのナースたちに失礼にあたる。「わかってる」もう一度言った。つけたせば、渉のやさしさも十分わかっている。問題があるとすれば、それが普通、になっていることくらい。
平谷のスキー場の脇を抜けると駒場まで十分ほど。距離にして十キロ足らず。昔ならに二里半。ここを行進した武田軍は二万人いた。その隊列の長さは、同じ二里半と言われている。信玄の病状を知らされていない大半の兵たちは勝利の歓喜を上げながら故郷への行進を続けた。
父を追放し、三千人もの生首をさらしものにし、息子を切腹にまで追い込んで戦国の巨星の名を得た武田信玄も、その死に際には未練と孤独に中にいたのかもしれない。それは本能寺で逝った織田信長も同じ。
長岳寺は百五十三号線から少し入った山間にあった。大木が生い茂り、そのまま時代劇のロケにでも使えそうな風景の中にある。美穂が、木のかげからよろいを着た侍が出てきてもおかしくないよ、などと考えたのは昨夜高男から聞いた謙信の話が頭の片隅に残っているせい、ばかりでもない。

「わたし、どうしてもわからないことがあるんです。それで今日うかがったんですけど」
美穂は富岡が正面に座るのを待って、「最初に会ったときは、わかるはずのない歴史上の話をもちだして関川さん自身が生きるための活力を得ようとしているのでは、と思ったんですよ。次は信玄のくやしさを自分と重ね合わせているのかなって思ったりして。つまり、すべてが生への執念なんだって。・・・でもどこか違うんですよね」一気に言った。
富岡は、驚いた様子で、「・・・そこまで考えていてくれたんですか」美穂を正面で見た。「洋平くんがよろこぶわけだよね」
渉は苦笑いになった。「すいません。こいつ、思いつめたら止まらなくて・・・」
「ごめんなさい。でも・・・」、さすがに美穂でも、あの人には残された時間が少ないから、とは口に出せなかった。「少しでもわかってあげたいんです」目は富岡から動かない。
「ありがとう。彼は最後にきていい人に会えて幸せ者だ」
富岡の視線が一度渉に移りふたたび美穂にもどった。最後、の言葉を簡単に口にしている。「彼の中に生への執念は少ないですよ。もちろんゼロとはいいませんが強くはありません。死への恐怖も同じ・・・」
「恐怖が少ないってのはわかります。昨日、あの階でひとり亡くなったんですよ」
美穂は昨日の経緯を話した。富岡はひとことも口をはさまずに聞いていた。「でも、わずかではあるんですけど、関川さんが雄弁に思えたんです」、時間の流れが重く感じられる。関川はゆっくりと口を開いた。
「謙信公ですが、・・・彼は長年の論争と言ったそうですが、そんなものは大した問題ではないんです。謙信公が死んだ場所なんてどうでもいいことなんです。それは、わたしも洋平くんもわかって話してるんですね」
「どうでもいいことなんですか?」
「そう、どうでもいい。だって真実がわからなければ推測でいくらでも話ができるでしょ」
「わからないから論争の種になるって話はいくらでもありますよね」
渉は横目で美穂を見ながら、「たとえばミロのビーナスの両手がどうなっていたか、なんて論文にさえなってるよ。現実にはリンゴを持った左手らしい破片が見つかっているし、右手は下半身の布をおさえている、の説が有力だけど、だれも断定しない。謎があの像の神秘性を深めていて」と、つづけた。空気の重さに耐えかねて? あるいは、少しおちつけ、との思いかもしれない。
富岡は「そうなんですね」小さくうなずいた。突然の乱入者を攻めるそぶりさえ見せないのは生きてきた長さ、あるいは住職という職業柄。しかし美穂は眉間にしわをよせた。話に水を差すな!
「洋平くんが謙信公の話をもちだすようになったのは愛知病院に入院したころからなんですよ」
富岡は横道にそれそうな雰囲気を修正した。やはり年の功。あるいは、少しでも友人の思いを知ってほしい、そんな思い。ゆっくりとテーブルから湯呑をひきよせた。しかし口に持っていこうとはしない。「彼は侍になりたかったんですよ。・・・あの時代では現代よりも死が身近でした。人生五十年。幼児の死もおおかった。医療なんてないに等しかったですからね、怪我や病気でも簡単に死んだ。戦では、史実に残らないような小さな戦でも何百人もの死者を出してと聞きます。関ヶ原の戦いでの死者は五万とも六万とも言われています。多くの者は、まるで虫けらみたいに簡単に死んだんですね」ゆっくりと、しかし一気に言ってはじめて湯呑を口にもっていった。わずかに間があいた。
「関川さんが侍になりたかってのは、その多くの虫けらのようにはなりたくない、ってことですか? 関川さんは、しょせん枯葉の裏で生命を終える小さな虫と同じ、って言ってたんですけど・・・」
美穂は富岡の次の言葉を待ちきれなかった。
「そうじゃなくて、誰でも死ぬってことです。その死ぬ時期は神さまにしかわからないけど、誰にでも死はやってきます。・・・彼はだれよりも命を大切にする男です。それが小さな虫に対して、でも」
富岡の唇から茶碗が離れた。「でも、侍には理不尽な死があったんですね。あの時代では城主からの、腹を切れ、の一言で死んだ者が少なくなかった。中には沙汰が出てから一か月以上の待ち時間がある場合もあったんです。もちろん逃げ出そうと思えば逃げられたんですけど多くの侍は、それをしなかった」
再び間があいた。美穂は、ただ富岡の口が動き出すのを待った。「・・・洋平くんは、そんな状況になった侍たちは何を考えながら生きていたんだろう、って自問自答しているように見えたんですよ。死をあるものとしていかに過ごすか、って。多くの侍たちは通常の生活を心がけたようです。朝起きて食事をして夜になったら眠る生活を淡々とくりかえしながら、そのときを待った、ようです」
「・・・関川さんが、普通に話しただけ、って言われたのは。・・・そんなときでも関川さんはわたしの立場を考えてくれて言いたいことを抑えてくれました」
「不器用な奴ですから、死を前にしても自分を通したいんでしょう。それがわかるから、会いに行っても洋平くんの話に合わせるだけ、と決めてるんです」
渉の目は関川だけにむかっている。「・・・死ぬのが怖くない人なんていないでしょうけど」。美穂は、「会社の先輩が、みっともなく騒いだりわがままになる人がほとんどだって、だから、あの階では言葉に気をつけろ、って何度も言われました。もしかしたら、それに耐えかねて新米のわたしをあのコースにまわしたんじゃないかって思ったくらいです」ため息をついた。
富岡は壁にかけてある黒いスーツを見ながら、「とうに諦めていたつもりですが、どうもいけません。年甲斐もなく・・・」再び間をおいた。
富岡もまた関川と同じ古いタイプの男。ゆっくりと美穂と渉を見た。「わたしもそうですが、洋平くんには孫もいます。人生の中途で切腹を命じられた侍たちにくらべれば子孫を残す役割をはたし終えているだけ幸せな人生だったはずです。でも、・・・今のわたしでは静かにそのときを待つ自信はありません」
「・・・住職さんでもですか?」
「持てません。だからこそ洋平くんを尊敬しているんです。わたしは住職ですから、死がわりと身近にあったんですけどね」
「関川さんは、山で育った者は死に対する感性がある、なんて言ってました。若いころからって」
「それはわたしも感じています。山では子孫継続の循環が目に見える形でおこなわれています。たとえば君たちのように若い人たちには死そのものが意識の中にないでしょ。おそらく、すべての生きる物にとってもっとも重要な時期なんですけど、それを過ぎると必ず老いと死がやってきます。静かにそのときを待ちたいって願望はあるんですけども、・・・それがむつかしい」
それはひとり言にように響いた。富岡は関川の同級生.七七才。今は病院にはいないだけ、という状況。それは弱音を吐かないのが男、と信じて生きてきた世代。「昔は人生五十年。今は平均年齢八十年の時代です。でも子孫を残すというし使命は変わらない・・・」君たちは恋人同士ですよね? などと口に出せないのが年老いた男。
美穂は、一月の同級生たちとの旅行で晴美だけが生き生きとしているように感じた。内心では大卒の優越感を持っていたのだが、同時に、身ごもっている女に勝てる者などいない、そんな感覚も残っている。生まれて子供を産んで死ぬ。まったく当たり前の種族継続。
「男は七十才を過ぎたころから、あと何年くらい生きられるか、なんて口にするようになるんです。でも女は言いません。とくに子供を産んだ女は言いません。人生に満足してるんですね。男は実感がないから虚勢をはるしかないんです。たとえば成功者といわれる人でも満足なんてありえません。欲望とはそんなものですからね」
「女のほうが現実的で強いですしね。ぼくの母を見てると、つくずくそう思います」
渉は苦笑いを浮かべて「美穂も同じです。恋人よりも就活のほうが大事だし、ぼくより関川さんを優先するんです。ぼくなんかおまけみたいなもの」美穂を見た。
「なに言ってるのよ!」
当然のように美穂は渉をにらみつけた。富岡は、「君たちは・・・」いい人に巡り合ったね、と言いかけてやめた。老婆心が自身の歳が出させる妬みに思えた。
それからしばらく話して寺を出たときには昼をまわっていた。富岡は玄関まで送る途中で、「彼は本当にやさしい男なんですよ。若いころから殺生をいやがってた。母親の影響、なんて言ってましたね」そして、「洋平くんをよろしく頼むよ」と、二度ほど言った。

自然が早足に遷ろう季節の中で芽吹いた若葉たちは、めまぐるしく色を変える。まったく自由奔放に。そのとき、花は果実に姿を変える。それは太陽以上の輝を見せる一瞬。
「五平餅って食べたことあるでしょ」。美穂は、横眼で渉を見た。
「甘みそをつけたやつのことか。美穂の母さんが作ってくれるやつはうまいよな。香嵐渓の売店でも売ってる足助の特産だろ。おれ、あれ、好きだよ」
「ところが五平餅って、もともとは信州のほうの携帯食だったんだよ」
実は高男の受け売り。「戦後のころ足助にも特産品が必要になって作ったんだって」
「侵略してきた侍たちが持ちこんできたものを、・・・か。今では土着民って意識はうすいけど、けっきょく地に根をはってる者がいちばん強いのかな。ユダヤ人なんかは、それがないから・・・」
渉は、そこまで言ってやめた。思いがまとまらない。寺は時間の溜り場。その流れがあいまいに感じられる。この空間では、ただ事実だけが無造作に蓄積されているだけ。新緑の間からの木漏れ日が視界のすべてを淡い緑色へと変え、ふたつの短い影は境内からの林道をゆっくり進んでいく。
「・・・誰だって、そのときだけを生きてるんだよ」
ガン末期患者の関川と子供を産む晴美の顔を同時に感じながら、美穂は渉との隙間をうめていった。無償にキスをしたくなっている。四年の歳月のなかに埋もれていた感情。
――母さん、渉は物事にこだわらない性格だから水野姓になるのは気にしないかもしれないよ。でもね、こいつは西洋かぶれみたいなところがあるからね、もしこいつが外国へ行くって言ったらわたしはついていくから。
男は夢を糧に生き女は現実の中に棲む。問題は二本のレールが同じ方向を向いているかどうか、だけ。平凡な夫婦、たとえば美穂の両親などがそうだ。そして美穂は多恵の血をしっかり受け継いでいる。渉も、どこか真と似ている。

ドアは人を臆病な生き物に変えたりする。そこにきのうと同じ風景が待っているとは限らない。たとえば視界のきく道なら、あそこの店に入ろう、と心の準備もできるのだが。
美穂は、重いドアが動き出したとき、どうか正面の案内カウンターにナースさんがいるだけの静かな空間でありますように、と思った。きのう、多恵が「先生、元気そうに見えたよ」と言ったから、少なくとも土曜日は異変はなかったことになる。
しかし、日曜日のたった一日で、どう変わるかわからないのが、この階。
美穂は、きょうも一階から配送してきた。たった三日でルート配送のベテランのような顔をしている。この日も当番は後藤だった。後藤は、「あらご苦労さん。ひとりで配達するようになってから連続でわたしだね。こんなの珍しいんだよ」聞きなれた声で笑った。この声なら安心できる。「日曜日でリフレッシュしてきた顔だね」
「わたしの疲れなんてナースさんにくらべたら、どうってことないですよ」
美穂は笑いかえした。営業用の作り笑いではなく本音。「後藤さんは結婚されてるんですか? この仕事は結婚してると大変だと思えるんですけど」これも本音。すこしでもこの階を理解しようと思っている。これが美穂の性格だからしかたがない。結婚。少しだけ渉との夜の余韻も残っている。
「結婚してるよ。旦那はあきらめてるね。ナースは人手不足だからしかたがない、なんて言ってるよ。でも佐野さんはどうなるかわからないね。この仕事は家族の理解がないと続けられないから」
「佐野さん、結婚なさるんですか?」
「もうすぐだよ。もし勤められないとなると、ホスピタルは誰でもいいってわけにはいかないから・・・」
実は切実な思いなのだろうが後藤が言うと、どこかのんびりとしているように聞こえる。美穂は「そうなんでしょうねぇー」、しかめっ面で返した。美穂が、わずかの間でこの階になじめたのは後藤の存在が大きい。やはり、この階の主役はナース。それを関川は白衣の天使と表現した。
「ほら、アイドルの登場をまってるわよ」
後藤は待合室に目配せをして、「あの人かわいいでしょ」目のふちで笑った。関川は待合室のいちばんはじっこで外を見ていた。美穂は人がいないことを確認してから「関川さん、おはようございます」。すこし高い声を背中にむけてひびかせた。
「ア、 おはよう」関川は、まるで生徒に向かうときの教師のように答えてふりかえった。あいかわら
顔色は白いが、それ以外に変化はない。美穂は、
「母が、先生は昔と変わらなかったって言ってました」
言いながら厨房にはいる。「関川さんはこわい先生だったんですか?」
「ぼくほどやさしい教師はいなかったと思ってますよ。ただ、あのころは生徒をたたくことを許されていた時代ですからね」
「やっぱりこわい先生だったんじゃありませんか」
「人をたたくということは、こちらもその責任を取らなくちゃいけないってことなんですけどね」
「自分にもきびしく、ですか。母もこわいけどやさしい、っていってました」
「わかってくれていたとしたら本当にうれしいですね」
そこには、最後まで少しこわい先生として生きたいと願い、そのときを静かにまつだけの侍にあこがれる、不器用な男のすがたがあった。
ふたりの話声を聴きつけて一号室に新しく入った患者がガラガラを引きながらやってきた。この人はまだ元気に見える。この階はすべての部屋が緊急病室のようなもので、空いたから入った、だけらしい。「楽しそうだね。仲間にいれてくれよ」
「どうぞ、どうぞ」
美穂は病室にかかっている名札を見てくればよかった、と思った。それを察した関川が「宮沢さんだよ」と言った。美穂は思い切って、「それじゃ宮沢さん、関川先生」そして、少し気取って言った。
「モーニングコーヒーはいかがですか?」
宮沢はあっけにとられた様子で美穂を見た。関川は声にだして笑った。「宮沢さん、水野さんはアイドルなんですよ。だからこの人の言うことをいちいち考えてはいけません」そして美穂にむきなおって「ありがとう、いただきます」屈託のない顔で言った。


兵藤 郁夫(小説) : 掲載作品

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